誘蛾灯の囁き

アート音痴・芸術素人が好き勝手やってます。

映画『カッコーの巣の上で』感想(ネタバレ有り)

ずっと観たくてたまらなかった映画、『カッコーの巣の上で』。

名作として名高いこの作品を、休日にビデオを借りて見てみました。
以下、ネタバレを含みます。



精神病患者ではないのに、労役逃れをしたいがために精神病院に入った主人公マクマーフィー。
主人公とその病院の患者たち、患者たちに不満を与えていた病院側のログラムを守る人々。
マクマーフィーの存在によって、相互作用を起こすかのように変わっていく人間の変化をドキュメンタリータッチで描きあげた作品。


カッコーの巣の上で」、この作品がもし、悪の病院側VS痛めつけられる患者という単純なわかりやすい対立構図で、それに反発し続けるマクマーフィーが患者たちを脱出(解放させる)させるエンドであったなら、メッセージ性も低く、あまりにも陳腐で安っぽく、ここまで語り継がれる作品にはなっていなかっただろうと思う。
単なる娯楽映画に堕ちていただろう。

この映画においては、近頃の映画で描かれそうな、病院側が完全な悪・打倒すべき敵、というわけではないのだ。

ベテラン婦長であるラチェッド婦長にも、「患者をよりよくしたい」「どんな患者であれ逃げずに面倒を見る」という強い意志と根性がある。

しかし、それがしばしば患者の必要としているものとあわなかったり、一方的な厳しいだけの押しつけになっていたり、患者に寄り添うものではないことが殆どだ。
彼女は秩序を守らせることが第一になりがちで、それが時に患者を苦しめる。

マクマーフィーはかたやぶりな人間ながら、その患者たちが何を必要としているかを感じ取り、規則を破って自由にそれを実行する。

マクマーフィーは、ラチェッド婦長の規則によってまもられた精神病院のルールに、とことん反抗していく。

マクマーフィーの荒っぽい態度の中に、患者たちへの親愛の情を感じるシーンが多々存在する。

撮り方も、話している人物に焦点をあてっぱなしにする、という平坦になりがちなドキュメンタリータッチでありながら、退屈することがないのはマクマーフィーが事件を多々起こすからでもあり(笑)、またそれは俳優たちの演技のうまさによるものだろう。

この撮り方によって、まるで自分がその場にいるような錯覚を抱くし、俳優演ずる患者の感情の揺れ動きがよく見えて、釘付けになってしまうのだ。

また、チーフを大男のインディアンにした、という点も興味深い。
ロボトミー手術を受けて人間らしさをうしなったマクマーフィーに、チーフが「一緒に逃げよう」といいながら彼を枕で窒息死させるというシーンは確かに衝撃的だが、そこには『魂を解放する』、『そしてこの閉鎖された病院から共に自由になる』という意味が込められている。
もしチーフ役の人間が、ラテン系であったり、アングロサクソンだったりしたら、説得力が違ってしまったであろう。
(そしてこのシーンはロボトミー手術への強烈な批判にもなっていると感じる)

最後、マクマーフィーが持ち上げることの出来なかった水道?を、チーフが持ち上げ、それで窓をぶち破り脱出するというシーンは、『マクマーフィーの意志を継ぐ』というメッセージが込められていると感じた。

マクマーフィーはきっと、残された患者たちの中で、伝説となって生き残るだろう。
水道を持ち上げ窓をぶち壊して逃げ出した、伝説の男マクマーフィーとして。

患者たちはまさかチーフがマクマーフィーを殺したとは夢にも思わないであろうし、窓をぶち壊したのはマクマーフィーだとかたく信じていそうだ。

また、精神病棟という設定上、キャラの濃い患者がうようよいるなか、この作品を一番シメることとなる存在は主演女優の演技だと思った。
ベテラン婦長役の主演女優の演技力のうまさ。
聡明そうなアーチを描いたほとんどぴくりとも動かぬ眉と、その額のあたりに浮かぶ、彼女の意志の強さが印象的だ。ベテランという風格と、己の意見をかたく信じている意志の強さ、厳格さがよく現れている。

「愛が込められたもの」の値段と、豊かさの本質。

1500円の醤油と158円の醤油の違いについてブログに書いている人が居て。
安いものはそれなりの理由があって、究極的には牛丼屋の牛丼なんぞ人間の食べるものじゃないと言ってる人が居たけど…

確かに、車であれ家具であれ服であれ調味料であれ、人間の手間暇と創意工夫という「愛の込められたもの」は高額になりがちなのは事実だ。
そりゃみんなお金持ちで、お財布を気にせずいろんなものが買えるなら、1500円の醤油だって買うだろう。
25万のバレンティノの服や、幻のレクサスのLFAも。

でも、安くても美味しい料理を作ろうとすることの大切さだってあると思うのだ。
安いものの中でもおいしいものを見つける楽しさとか。

もちろん、食に限った話ではない。
誰しもお金があれば、カッシーナやhhstyle、大塚家具でデザイナーズ家具を買ったり、Bo conceptでオーダーメイドソファーを作ってもらったりするだろうが

現実はそうじゃないから、金銭的な制約の中で、ニトリ楽天、無印や百均をフルで使いながら、素敵な部屋作り目指して頑張っていたりする。
私はそういうのも嫌いじゃない。

高いものを選択する際に
「高いものには理由があるのだから、高いものを使えさえばいい」という態度なら
愛の込められた商品に対して、それはあまりにも愛がない態。


料理に関していうならば、高くてオイシイは当たり前だけど、安くてもオイシイ、じゃだめなのだろうか?
私は平日決められた食費の中で、手頃な家庭料理を作っているが、下ごしらえをしっかりするだけで料理は本当に美味しくなる。
私の毒母は最高級の高い肉と高い調味料でまずい手抜き料理ばかり作っていたけど。

愛の込められたものを使うなら、込められた愛を理解出来る器を持つ人間でなくてはと思う。

愛は尊い。愛に値段はつけられない、というか、人間の試行錯誤・創意工夫・果てしない手間暇という愛の込められた商品が、高くなるのは必然。

でも大量生産をやめて、溢れる愛とこだわりの込められた一点制作ものの高いデザイナーズ家具や服ばかりがこの世に溢れたら?そしたらどうなるだろう?

貧乏人は服すら買えず、部屋の照明すらつけられないハメになる。

愛は尊く、素晴らしく、人を豊かにする。
そんな愛に値段はつけられないが、人は愛の込められたものだけのために生きてるわけじゃない。

昔はインテリアという視点から見たら目を覆いたくなるほどダサくて、愛のないシーリングライトの存在する意味がわからなかったけど今はその意義もわかってる。
相変わらず大嫌いなのは変わらないけども。


選択肢は沢山あった方がいい。そのほうが総合的に見て豊かな世の中だ。
望むと望まぬにかかわらず、私のような特に権力も金も持たない一般庶民はたくさんの「制約」を背負っているだろう。
確かにある程度「制約」はあった方が何事も楽しいけれど、選択する自由が欲しい。

豊かさ(の本質)というのは、物が溢れてることでも、今はやりのナチュラルオーガニックな生活でも、こだわりのシンプルライフでもなくて、選択出来る物が多いことをいうのだと思う。

可能性と選択できるものの多さ、それが豊かさの本質。
その上で、今あるものを組み合わせたり、インスピレーションを受けたりして自分で新しく創造出来たらば、さらにより良い豊かさを生み出すことになるのだろう。

画家の画集を買うのは無意味か?

とある質問サイトで、「絵画は画集を買っても生の絵ではないわけだし、意味がないのではないか?」という質問をしている人がいた。
実物のみが持つ「アウラ」のない画集を買うのが無意味だというのなら、それでは音楽だって生のライヴ以外のCD音源は聴く価値もないということになってしまうだろう。

自分の好きな絵を死ぬ前に直接全て見るなんて現実的に不可能だ。
現地に赴くには大変な手間と時間と金がいるうえ、一般公開していない個人所有の場合もあるし、海外の美術館が所蔵していて国外に出さない(出せない)場合だってあるわけで。
フレスコ画(壁画)とかどうやって国外に出すんだという話になる。

音楽も、普段はCD音源を聴き、時にライヴに行くように、絵画だって普段は画集やネットの画像を見て、美術館の展示で実物が持つ「アウラ」を感じればいいじゃないかと思う。

実物を見たときの感動は味わえなくても、その画家が作品に込めた愛は、たとえ画集に収められた写真からであろうと伝わるはずだ。

私は目黒の本屋でふと手にとった本で、ヴィジェ=ルブランの、娘を抱いた自画像が載ったページを見たとき、全身に震えが走り、感動と感激で胸がいっぱいになった。

なんて温かい、あふれるほどの愛と、優しさ。親しみ。
見ていて、心が隅々まで温められるような幸せを感じた。
生きていてよかった。そう思わせるほどの幸せなパワーを感じさせる絵だった。
素晴らしい絵とはそういうものだと思う。

画集であれ、ネットの考察ページに載せられている画像であれ、愛が込められた素晴らしい作品が発するパワーとメッセージは妨げられることはない。

もちろん、実物を見れたら良いに越したことはないだろう。
思っていたものよりも小さかったり、大きかったりするその絵の匂い、色、筆の跡。
観る角度によってまた違う表情を感じる楽しみ。
それは実物を見た時のみ味わえる楽しみだ。

そして画集の利点は、混雑した美術館と違って、時間や人の目を気にせずにじっくり鑑賞することができるところだ。
休日自宅でのんびりと好きな飲み物でも飲みながらゆっくり画集を開いたり、落ち込んだ時に開くのだっていい。

「これは!」というお気に入りの画家を見つけたら、是非画集を買って欲しいものだ。

「笑い」と「恐怖」の境界線~チャップリンという天才~

週末に旦那と観る映画を、チャップリンの「サーカス」に決めた。
白黒の無声映画だけれど、今見ても色褪せぬ面白さで、おすすめの作品だ。

中学生時代なチャップリンはかなりの作品数を見た。
近所迷惑なことに、真夜中に観ながら腹を抱えて大爆笑していたことを覚えている。
今見たらまた違うのかもしれないが、私は「モダンタイムス」とかヒットラーをおちょくった映画よりも、「サーカス」や「街の灯」みたいな面白く、でも少し切ない作品の方が好きだった。

個人的にチャップリンは「笑い」を極めた天才だと思っている。
大学時代、芸術学科に所属していた旦那のホラー映画の授業を勝手に聴講したときのこと。
教授が「怖さ」は時に「笑い」を生む、ようなことを言っていて、「恐怖」と「笑い」の境界線について考えさせられた。

「笑い」は、人間がある程度予測できる行動から少しずれた、少し逸脱した反応や行動に対して生まれ、「恐怖」は完全に理解&予測不能なものに生まれるのではないか?

理解できる逸脱→笑い
理解不能の逸脱→恐怖

社会生活を送っている人間ならば、これこれこういう事態にはこういう行動を取るだろう、という他人に対する予測がある程度できるものである。
それをある程度、理解できる範囲で逸脱する。
チャップリンが笑いの天才たる理由は、そうした「理解できる逸脱」をよく突いてくるからだ。

チャップリンの楽しい映画が、ただの消費エンタメにならない理由は、笑いを突き詰めるにあたって、必然的に「人間」を突き詰めてきたからだと思う。


それに加え、私達は「理解不能な逸脱」に関しては恐怖を感じる。
身近でありながら「理解不能な逸脱」を極めれば、強烈な恐怖を感じる名作ホラー映画になるのではないか、と(勝手に)思っている。

私はホラー映画に関心を持ちつつ、怖がりかつビビリなおかげで、残念ながら偉そうに論じられるほど作品を観ていない。

「ジャパニーズホラー」についてもいつか考察してみたいものである。

作品に対する愛のあり、なし。

昔の名作映画ばかり観ている私だけれど、ファッションデザイナーや、西洋王室・貴族の映画、心理学に関係していそうな映画がやってるとついつい観てしまうクセがある。
(あとは樹木希林の出演してる映画も見てしまう。)

心理学系の映画としてかなり前に劇場で見た「シャッターアイランド」は最低の作品だった。
映画としてその終わり方はナシだろう、今までの話も何もかも全て意味をなさないだろう、それじゃ盛大な釣りだと思ってしまった。

あなたはこの謎を何分で解けるか、と散々煽っておいて後出しじゃんけんで負けさせられた気分で。
誰かがYahoo!か何かの映画レビューで「この映画は謎解きものではなく、精神とは?という命題で見させた方が絶対に良かった」と言っていたけど本当にそのとおりだ。

たとえその精神とは?人間とは?という命題で見るにしても、ひどい映画だったけども。
主人公が妄想世界を抱くようになるに至るまでの背景とか心情とかそういう情報がたり無さすぎて。
シャッターアイランド」については、ひどい宣伝のせいもあって、観終わった後にがっかり感しか残らない映画だった。


いくら映像が美しかろうと、音楽が良かろうと、役者の演技がうまかろうと、やれ3Dだやれ最新のCGアクションだと騒ごうと、名監督の○○氏が作ったものだろうと、脚本がダメだともうダメだと思ってしまう。
あとは皮肉だけども、宣伝の仕方も大切だなと(この作品のおかげで)しみじみと実感することができた。

映画に関して特に専門的に学んだことのない一介の素人観客の私だが、
そんな私が映画を評価するにあたって最も重要視するのは、作り手の愛を込められた作品なのか?ということ。

「愛があるかないか」、それは私の中でかなり重要なポイントだ。
撮る対象/作る対象や表現したいものについて真剣に向き合っているか、どうやって伝えようか、この表現をどうやって実現させようか考えに考え抜いているか。
絵画・映画・文章・建築・工芸品問わず、そういったもの全般に対しての姿勢を私は(勝手に)「愛」と呼んでいる。


「こんなふうにしておけば売れるだろ、ウケるだろう」「とりあえずはやりのこれを入れておけばいいだろう」みたいな愛のない最低な商業デザイナーズ映画は観る価値もないしその姿勢が透けて見えると本当に頭に来る。
エンタメ作品としてただ消費するんだったらいいけれども。

話題性を狙ったり、ただ売れることだけを考えた、“雑な”愛のない映画、ドラマ、建築、音楽は嫌いだ。頭に来る。

そして特に映画の場合、その作品に込められたメッセージ・作品が提議したいであろう問題自体も重要で、それらが伝わりやすいかどうかも大切だと思っている。
難解すぎて誰にも伝わらないようならそりゃ独り善がりのアーティストのオナニーだとすら思う。
難解すぎて伝わらないというのは、自分の無教養さのせいもあるだろうけれども…
現代アートの絵画や彫刻、音楽ならそうした「伝わりやすさ」は特に気にしないのに。
映画に関してだけは、メッセージが観客である受け手にわかり易く伝わっているか?というところにものすごく注目してしまう。
やはり、映画は絵画や彫刻と違って、大衆娯楽の側面が強いせいだろうか。

リヴィオ・セグーソ~調和と奏~


一目惚れのような出会いをしたリヴィオ・セグーソの作品たち。
もともと箱根ガラスの森美術館に行くことになったきっかけは、セグーソの作品を見たかったからでした。
私の行った時期はちょうどヴェネチアンガラス展とセグーソ展の2つが開催されていたので、ガラスとヴェネチアが大好きな私としては一石三鳥の機会。

セグーソ氏の本も購入しました。
彼はイタリア、ヴェネチアの現代ガラス彫刻家です。
ガラスというものの表現に、こんな形があったのかという驚きと新鮮さを感じ、彼の作品の虜になりました。

はっきりいうと私は絵画か建築専門で、彫刻とかの立体的な芸術は苦手なクチ(あまり理解できない)ですが
もともとガラスが好きなのとセグーゾ作品のこの永遠や不変と変化、調和と違和感のバランス感に悩殺されてセグーゾ氏の作品が好きになりました。

異質なものを組み合わせることによって生まれた作品たちの音に耳を傾けると心地よいのです。