誘蛾灯の囁き

アート音痴・芸術素人が好き勝手やってます。

わび・さびの中の「有限性」と「無限性」、美の神性

私は別に仏像ファンやマニアでもなんでもないが、剥げた仏像が、人々の心に訴えかけるのは、時を経て表面が剥げ落ちるという、モノの「有限性」と、そこに何百年以上も存在している・ある、という「無限性」を人は感じるからでは無いかと思う。


枯山水の石庭、砂庭式枯山水は、毎日かどうかは知らないが、手間暇をかけて砂紋引きをしてるという、全く酔狂極まりないものだが、それが美しいのだ。


水面という通常ならば一瞬で終わってしまうそれ…事象の「有限性」を、手をかけて毎日毎日行い、(比較すると長い)持続的な「無限性」を表現として成立させている。


個人的な解釈だけれども、有限性と無限性の循環は、わび・さびの重要な一側面だと思っている。
ただしここでいう無限性とは、永久不変のものを指すのではない。というのは心に留め置かれたい。


ギリシャの彫刻も、日本の仏像も、当時は極彩色のような色で彩られていたことはご存知だろうか。
現在の姿は着色がほぼ全て落ちてしまった姿なのだ。


(大英博物館では顔料の色が付着していたものを「これは純粋で高度な文明であるはずの白のイメージに合わない」ということで色を落としたというスキャンダルもあったがここでは少し置いておく)


個人的には仏像であれギリシャ彫刻であれ、壮麗な華美さを強調した着色が消えたことで、新しい、あのなんとも言えない無限性の美を獲得したのだというところが非常に興味深い。


何れ消え落ちる儚さ、というのは日本人の美意識の中の代表だ。
綺麗に塗られ、完璧に作られたものは、テーマパークのような安っぽささえある。


欠落は美しい。欠落は想像の余地を産み、人々を「規定されていない」無限の美へ導くのだ。


ミロのヴィーナスも、彫像の腕がもげ落ちていなければ今の地位は獲得しなかっただろう。


完璧な美というものは、いくら黄金比によって裏付けされて作られていようが、一個人や社会、つまり人間が作り出した単なる「規定」にしか過ぎず、それには限界がある。そこには「有限性」の「限界」が透けて見えてしまう。
欠落した美、そこには神性が宿ると言ってもいい。


個人的に、有限性と無限性の循環は、輪廻転生のような仏教的な世界観とも非常に相性がいいようにも思う。


そもそもの「もののあはれ」的価値観が仏教の影響を受けているのだから当たり前だと言われてしまうかもしれないが、多くの日本人にとって宗教という明確な意識や存在が遠くなってしまった(多くの人が無自覚にアニミズム的、多神教的な信心を持っているとしても)今現在であれ、その精神が受け継がれて、ここにまだ現れているのは非常に興味深いのである。


現世の儚さと、解脱をしない限り終わることのない、生まれそしてまた死ぬ事の、永遠の繰り返し。
ひとつの人生や、そのある部分は有限であり、全体としての生命は無限である。


日本以外のアジア圏、例えば日本以外の儒教国特有の左右対称の美や派手な色使いはどうにも馴染みを覚えないのは、仏教や儒教の価値観といったものだけでは説明がつかないようだ。


どんなに左右対称、シンメトリーで煌びやかな着色がなされた立派な建物であっても、震災などの災害が起きれば脆く崩れ落ちてしまう。また時制や、時の権力者が変われば、放置され朽ち果てていくこともあるだろう。


自然なものの中に左右対称であるものは存在せず、我々はその自然に組み込まれている。
派手な色よりも鈍色が、わび・さびに相応しいのは、日本人の自然観が反映されているのであろうか。


筆者は他の人間よりも強く美しいものを愛し、固執する傾向にあるのだが、美しいものが必ずしも神性を持つ訳では無いというのは警告しておく。
神性を伴った美が最も尊いと思うが、きちんと形を考えて作られた「規定による美」もまたそれはそれで美しいのである。