拝啓、手紙。芸術と私と教授の対話。
ある対象物に、いくら魅力を感じても、 ましてやそれを分かってもらえるように他者へ説明することは難しい。
私は今も昔も『 言葉によって何かを理解したり説明してこようと努力してきた』 人間だ。
心理学でいうなら精神分析のフロイトやらユングあたりの立場をとっている。 人に何かが起こるのには必ず理由があってという。無意識というものを重視する。古臭く、 埃をかぶっている立場を、それを現代版にアレンジしているのが私。
人が何かを好きになったり惹かれたりするのは言葉によってある程度説明できると思っている。 無意識を意識の出来るレベルに押し上げるのだ、 言葉というもので言語化してゆく。自己分析によって。
しかしながら。私が今まで頼りにしてきた言葉では理解出来ないものがなんと多いことかと。それを痛感している。
私にとって、芸術はその最たるものだ。
そして頼りにしてきたこの言葉すら( 私は日本人なので母国語は日本語となり、しかも21世紀時点での日本語)、他言語を学べば学ぶほど、 母国語ですら知らないことだらけということに気が付かされる。 そして如何に私が言葉の扱い方が雑であったか…
心理を専攻する前から思っていたことだが、 人がある対象を理解したがるのは、「怖い」 からではないか。自分の力の及ばないもの。 もしかしたら命すら脅かすかもしれないもの。
ゆえに理解出来ないものが怖くて、古代の人間も、 自然も、震災も、神の力によるものなどとして、 それに対する説明をつけきた。
宗教も、哲学も、数学も、天文学も、なんとかして、 今自分を取り巻いている世界やそれに所属する他人や自分らを理解しようとする努力に他ならないと私は思う。
プーシキンの詩を読み始めてるが、 ロシア語で読めないことが悔しくてならない。 私はわがままで貪欲だから、 もっと『理解』出来たのではと思う。
日本語に置き換える時、 翻訳者という素晴らしい人達が活躍してくれ、私はそれを読み、 嬉しがるだけ…
私もその中の1人になりたいと思ったが、 私には向いていない、 これでは食っていけないことがよくわかったので、 翻訳者を志していたが、今ではすっかり諦め、 趣味のレベルになった。
芸術の分析や解釈でも、それぞれの解釈をぶつけ合って、 新たなる解釈や視点を知る事が出来た時、 私は嬉しくてならない。
私は私以外の人間になることは出来ないから、 彼らの意見を全て信じてしまったり、 そのまま鵜呑みにすることは出来ない。
しかし大学の教授のような、学問においても、人生においても、 素晴らしい先駆者がいる。 私はそこからたくさんのことを教えて貰えるのだ。
多くの著名な人が書いた本を読むことはできるが、その人物は存命していない場合もあるし、日常生活で関わることが難しかったりする。しかし、こうして実際にやり取りできる。本当に嬉しく、 有難いことだ。