誘蛾灯の囁き

アート音痴・芸術素人が好き勝手やってます。

わび・さびの中の「有限性」と「無限性」、美の神性

私は別に仏像ファンやマニアでもなんでもないが、剥げた仏像が、人々の心に訴えかけるのは、時を経て表面が剥げ落ちるという、モノの「有限性」と、そこに何百年以上も存在している・ある、という「無限性」を人は感じるからでは無いかと思う。


枯山水の石庭、砂庭式枯山水は、毎日かどうかは知らないが、手間暇をかけて砂紋引きをしてるという、全く酔狂極まりないものだが、それが美しいのだ。


水面という通常ならば一瞬で終わってしまうそれ…事象の「有限性」を、手をかけて毎日毎日行い、(比較すると長い)持続的な「無限性」を表現として成立させている。


個人的な解釈だけれども、有限性と無限性の循環は、わび・さびの重要な一側面だと思っている。
ただしここでいう無限性とは、永久不変のものを指すのではない。というのは心に留め置かれたい。


ギリシャの彫刻も、日本の仏像も、当時は極彩色のような色で彩られていたことはご存知だろうか。
現在の姿は着色がほぼ全て落ちてしまった姿なのだ。


(大英博物館では顔料の色が付着していたものを「これは純粋で高度な文明であるはずの白のイメージに合わない」ということで色を落としたというスキャンダルもあったがここでは少し置いておく)


個人的には仏像であれギリシャ彫刻であれ、壮麗な華美さを強調した着色が消えたことで、新しい、あのなんとも言えない無限性の美を獲得したのだというところが非常に興味深い。


何れ消え落ちる儚さ、というのは日本人の美意識の中の代表だ。
綺麗に塗られ、完璧に作られたものは、テーマパークのような安っぽささえある。


欠落は美しい。欠落は想像の余地を産み、人々を「規定されていない」無限の美へ導くのだ。


ミロのヴィーナスも、彫像の腕がもげ落ちていなければ今の地位は獲得しなかっただろう。


完璧な美というものは、いくら黄金比によって裏付けされて作られていようが、一個人や社会、つまり人間が作り出した単なる「規定」にしか過ぎず、それには限界がある。そこには「有限性」の「限界」が透けて見えてしまう。
欠落した美、そこには神性が宿ると言ってもいい。


個人的に、有限性と無限性の循環は、輪廻転生のような仏教的な世界観とも非常に相性がいいようにも思う。


そもそもの「もののあはれ」的価値観が仏教の影響を受けているのだから当たり前だと言われてしまうかもしれないが、多くの日本人にとって宗教という明確な意識や存在が遠くなってしまった(多くの人が無自覚にアニミズム的、多神教的な信心を持っているとしても)今現在であれ、その精神が受け継がれて、ここにまだ現れているのは非常に興味深いのである。


現世の儚さと、解脱をしない限り終わることのない、生まれそしてまた死ぬ事の、永遠の繰り返し。
ひとつの人生や、そのある部分は有限であり、全体としての生命は無限である。


日本以外のアジア圏、例えば日本以外の儒教国特有の左右対称の美や派手な色使いはどうにも馴染みを覚えないのは、仏教や儒教の価値観といったものだけでは説明がつかないようだ。


どんなに左右対称、シンメトリーで煌びやかな着色がなされた立派な建物であっても、震災などの災害が起きれば脆く崩れ落ちてしまう。また時制や、時の権力者が変われば、放置され朽ち果てていくこともあるだろう。


自然なものの中に左右対称であるものは存在せず、我々はその自然に組み込まれている。
派手な色よりも鈍色が、わび・さびに相応しいのは、日本人の自然観が反映されているのであろうか。


筆者は他の人間よりも強く美しいものを愛し、固執する傾向にあるのだが、美しいものが必ずしも神性を持つ訳では無いというのは警告しておく。
神性を伴った美が最も尊いと思うが、きちんと形を考えて作られた「規定による美」もまたそれはそれで美しいのである。

『イヴサンローラン』(2014)映画感想

 

この作品は、イヴサンローランが残した華やかで美しいファッションについて描かれた作品ではない。
もちろん随所にそれが散りばめられてはいるし、そうした部分も楽しめるだろうが、メインではない。
この作品は『ファッションデザイナーとして様々な作品を生み出したイヴサンローランとは、一体どういう人間であったか』を説明するための映画だと思う。

 

これは表現や描写のすべてに、一切の無駄がない映画だと思った。
ひとりの人間の生涯を、二時間そこらでまとめあげなければならない作品の性質上、詰め込まざる得ない部分はあるのだけれども。


『彼はどんな人であったか?』それを説明するために必要な描写が無駄なく詰め込まれ、とても美しくまとめられているのである。
そういう意味でも私はとても好みの作品だった。

 

そして何と言ってもこの作品は、主演俳優の演技と音楽が素晴らしい。
それだけでも見る価値のある映画だ。

特に主演俳優の演技力の高さを私は絶賛したい。

特徴的かつ個性的な顔立ち故に、ハリウッドヒーロー的ポジションにつくことは難しいと思うが、どうか長く活躍してほしい期待の演技派俳優である。

観客を圧倒的な演技で魅せて強烈に印象づける。そんな俳優だと、私は思った。

最優秀男優賞を取ったのは納得である。

 

《以下、ネタバレを含みます》

前半の、神経質で繊細なイヴを表現する仕草や挙動、イヴの抱えている内面の苦悩、隠したり抑えることのできない恋慕や怒りや嫉妬などの心の動き。
後半の、失われた青春を取り戻すかのように酒と男とドラックで豪遊するイヴの堕落。その裏にある、それでも満たされることない虚しさ。カールラガーフェルドの愛人ジョージとの愛欲。仕事の面でも精神的な面でも支えてくれた生涯の伴侶であるピエールとの関係。
そんな中でも彼はファッションの最前線に立ち続け、制作と発表を続ける。

ピエールの「君が幸せなのは春と秋のふたつだけ」と言う言葉の通り、『ファッションで表現すること』
それは彼の生きる行為、生きる意味そのものであったのだ。
これらを、見ているものに分からせる彼の演技力には感嘆するばかり。

また、イヴのパートナーであるピエール役(ギヨーム・ガリエンヌ)の演技力も負けじ劣らず素晴らしい。
スクリーンでは主役であるイヴの表情や仕草が目立つが、ガリエンヌの演技は、言葉で語らず『目』で語るのだ。
イヴに出会ったばかりの頃の高慢で挑発的な目、イヴへ送る愛しさを込めた視線、ヴィクトワールへの嫉妬の眼差し、尽くし続けてきたイヴに裏切られ八つ当たりをされた時の失望、虚しさ、悲しみを湛えた目。
目立ちこそしないものの、この映画をより引き立てる名脇役だと思う。

特徴的かつ個性的な顔立ちなゆえに、主演をはりがちなハリウッド的ヒーローポジションにつくことは難しいと思うが、どうか長く活躍して欲しい期待の演技派俳優である。 観客を圧倒的な演技で魅せて強烈に印象づける、そんな俳優。

ディオールというメゾンの片腕を担い、自らのブランドを立ち上げ多大な責任に押しつぶされそうになりながら働き詰めだった、青く繊細で神経質なイヴの青年期は終わりを告げる。
ヴォンテーヌとの別れがその象徴である。
また、ここまでで使われたBGMの音楽は全てジャズやピアノであったが、ニュールックで成功を掴みとってから
移り変わりも分かり易い。
ここから成功を掴み、名声を得てゆく

ある程度大人になれば、両方の立場、その気持ち、言動が理解できるだろう。だからこそ痛いほど切ないのだ。

 

イヴのように。
精神的に深く繋がり、生涯を共に歩む人が出来ても、それが一生揺るがないものでもあっても、誰かを愛してしまうこともある。別の誰かを愛していても、心から繋がっているパートナーは変わらないのにも関わらず。

 

またピエールのように。

生涯を捧げて支え続けて、愛し続けてきた。彼そのものと、彼のその才能を。報われないつらさ、そして人の想いを変えることはできない虚しさ。
彼は内側に巣食う怒りを、めったに、大声に出して怒鳴り散らしたりはしない。

 

ジョージを愛している。でも生涯の男は君だ」

そのイヴの言葉がどれほど彼を傷つけただろう?そして救いにもなり、絶望にもなるだろう。

『ファッションデザイナー』のイヴを支えようとすればするほど、
周囲からは大金を掴んだヒモだと陰口を叩かれ、イヴと近しい人からは彼の自由を奪い縛り付けていると謗られる。

 

なんと悲しい、いや、哀しい、素晴らしき映画だ。

拝啓、手紙。芸術と私と教授の対話。

 

 

ある対象物に、いくら魅力を感じても、 ましてやそれを分かってもらえるように他者へ説明することは難しい。

私は今も昔も『 言葉によって何かを理解したり説明してこようと努力してきた』 人間だ。

心理学でいうなら精神分析フロイトやらユングあたりの立場をとっている。 人に何かが起こるのには必ず理由があってという。無意識というものを重視する。古臭く、 埃をかぶっている立場を、それを現代版にアレンジしているのが私。

人が何かを好きになったり惹かれたりするのは言葉によってある程度説明できると思っている。 無意識を意識の出来るレベルに押し上げるのだ、 言葉というもので言語化してゆく。自己分析によって。

 

しかしながら。私が今まで頼りにしてきた言葉では理解出来ないものがなんと多いことかと。それを痛感している。

私にとって、芸術はその最たるものだ。

そして頼りにしてきたこの言葉すら( 私は日本人なので母国語は日本語となり、しかも21世紀時点での日本語)、他言語を学べば学ぶほど、 母国語ですら知らないことだらけということに気が付かされる。 そして如何に私が言葉の扱い方が雑であったか…

 

 

心理を専攻する前から思っていたことだが、 人がある対象を理解したがるのは、「怖い」 からではないか。自分の力の及ばないもの。 もしかしたら命すら脅かすかもしれないもの。

ゆえに理解出来ないものが怖くて、古代の人間も、 自然も、震災も、神の力によるものなどとして、 それに対する説明をつけきた。

宗教も、哲学も、数学も、天文学も、なんとかして、 今自分を取り巻いている世界やそれに所属する他人や自分らを理解しようとする努力に他ならないと私は思う。

 

プーシキンの詩を読み始めてるが、 ロシア語で読めないことが悔しくてならない。 私はわがままで貪欲だから、 もっと『理解』出来たのではと思う。

日本語に置き換える時、 翻訳者という素晴らしい人達が活躍してくれ、私はそれを読み、 嬉しがるだけ…

私もその中の1人になりたいと思ったが、 私には向いていない、 これでは食っていけないことがよくわかったので、 翻訳者を志していたが、今ではすっかり諦め、 趣味のレベルになった。

 

芸術の分析や解釈でも、それぞれの解釈をぶつけ合って、 新たなる解釈や視点を知る事が出来た時、 私は嬉しくてならない。

私は私以外の人間になることは出来ないから、 彼らの意見を全て信じてしまったり、 そのまま鵜呑みにすることは出来ない。

しかし大学の教授のような、学問においても、人生においても、 素晴らしい先駆者がいる。 私はそこからたくさんのことを教えて貰えるのだ。

多くの著名な人が書いた本を読むことはできるが、その人物は存命していない場合もあるし、日常生活で関わることが難しかったりする。しかし、こうして実際にやり取りできる。本当に嬉しく、 有難いことだ。

『シャガール、その一生』

 

私が取り上げたいのは、最愛の画家のひとり、シャガールである。

彼はどのような人であったのか、また、彼が描き続けたものはなにか、そして絵画とは、芸術とは何であるのか、を。まとめていきたい。

 

ローマ時代、コンスタンティヌ帝がキリスト教を国教化した後、ローマは滅ぼされ、東西に分裂した。

それ以降の壁画や絵画は、芸術に人間性に重点をおいてきたギリシャとは違い、文字の読めない人々にもキリスト教を布教させるべく作られてきた。

東方正教に属するロシア(ロシア正教)においては「イコン」が発達した。

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(イコンそのものは信仰や崇拝の対象ではなく、信仰の媒体として尊ばれていたようだ)

しかしながら14世紀になると、ギリシャ・ローマ時代の美に立ち返り、個性を尊重し、人間性の解放を目指そうという、フランス語で「再生・復活」を意味する運動がイタリアで起こり、それは各地に影響を与えっていった。

それ以来、絵画をはじめとした芸術は、キリスト教の枠だけにはとどまらないものとなり、時の権威者である王族や貴族の肖像画から、庶民の何気ない日常を描く風俗画などが生まれてきた。

殆どの国に、「アカデミー」と呼ばれるその国が整えた美術学校が生まれるようになった。

ヨーロッパ絵画において理想的な師とされたのはラファエロである。

古典的・かつ伝統的なアカデミズム派と、そこにとらわれない派の、対立の歴史が繰り返されることとなる。19世紀以降、ロシアでは保守派・革新派が現れることとなり、革新派の中でもロシア・象徴主義と、ロシア・アヴァンギャルド主義に分かれた。

シャガールは20世紀のロシア(現・ベラルーシ)の画家である。

彼はロシア・アヴァンギャルド派に属する画家である。彼自身は東欧系ユダヤ人であり、フランスのパリや故郷のロシアに行き来する生活をしていたが、ユダヤ系であったことから第二次大戦中ナチスの迫害を受けてアメリカへ亡命、その後再びパリへ戻り、フランスに永住することを決意した。

彼の作品の特徴的なところは、生涯、はじめの妻であるベラを愛し、そのベラへの愛と、故郷であるロシアへの思い、郷愁を描き続けたところにある。

パリへ初めて訪れた時はキュビズムの影響などを受けていたが、シュルレアリスムには批判的であったという。

 

私とシャガールの出会いは、当時交際中であった現在の夫と美術展へ行った時である。

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 最愛の妻を亡くした彼の悲しみ。筆舌に尽くしがたいほどの失望、打ちひしがれるほどの絶望、喪失感。自由な色彩と、自由な構成の中で、彼の心の内が、表現したいものが、伝わってくるのである、この絵を対峙している私と、恋人である彼にも伝わり、ふたりで涙を流した。

 

彼の作品は、模範とされたラファエロのような構成に全くとらわれていない。人間を描く時も、ギリシャ人が追及し、後のミケランジェロが体現しようとした人間そのものの身体的造形美を無視している。現実味がない。風景や、家具の形まで殆ど原型を留めておらず、「めちゃくちゃ」である。

彼の描いているものは、夢である。彼の心の内側の世界である。彼の心や、夢や、彼以外の他人が全く触れることも出来なければ、認識することも出来ない内側の世界だ。

それなのに、なぜ人が、後世の人々が、彼と触れ合ったこともないような私や夫が、それに惹かれるのか。彼の名が語り継がれてゆくのか。それは、どんな人でも、多かれ、少なかれ、彼と同じ部分を持っているからである。

 

妻のベラと結婚した時の喜び。その時の、飛び上がるほどの嬉しさ。

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誰かひとりの人を心から恋し、愛したことのある人間であるならば、彼の絵に共感することが出来る。彼は代弁者となる。

私も訳あって、生まれ育った故郷を無くした。中高生の頃はその郷愁の想いに満ちた詩ばかりかいていた。今戻ったところで、あの時のような場所ではないし、あの頃、あの時の自分が過ごした環境はもうそこにはない。私の心の中だけにしかない。

だからこそ、私は、彼の故郷への思いや、最愛の人を思い、ただひたすらに描き続けた彼に共感し、惹かれてやまないのだろう。

 

そして晩年の彼は、亡き妻ベラとの思い出に捧げて、「雅歌」いう連作を描くこととなる。彼は、死を目の前にしても、喪った人、亡き妻、ベラを想い続けていたのであろう。

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雅歌とは、旧約聖書の一部で、ソロモンとその愛人「シャロンのバラ」ことシュラムとの愛のやり取りを歌ったものだという。シャガールは自分自身をソロモンに、ベラをシュラムに譬えて、二人の永遠の愛の形を、絵に込めたのである。

 

その時感じた「気持ち」は一瞬のものである。同じ時も、場所も、感情も、人もない。何度同じ行動を繰り返そうと、あの時と同じ時や場所、気持ちはない。時代は変わり、気持ちは変化し、人も変わる。そして自分も変わる。記憶として残り続けるだけだ。

多くの人はそれを受け入れて、思い出として残して生きてゆく。しかしながら、シャガールはそうしなかった。画家として、絵を描き続けた。絵ならば、思う存分、描くことが出来る。そして「目に見える」形として、残すことも出来る。

 

マルク・シャガール

彼は画家である。『表現者』である。『表現者』は、『代弁者』となるのである。

ゴッホのように、その時代の人々には受け入れられなくとも、それを後世の人々が見直し、多くの人がそれに価値を見出すかもしれない。

絵画とは不思議なものである。現在では写真が生まれ、肖像画のようにその人を後世に伝えるべく(多少の誇張表現や美しさを足しながら)なるべくそのままに描くという「リアル」にとらわれる必要もなくなった。現代の芸術は「美」だけに囚われることがなくなった。「美」の追求だけではなく、個人の内面世界の表現の場となった。

繰り返すが、絵画とは不思議なものである。ある人にとっては何の意味もない落書きのように見え、ある人には多額のお金を払ってまでも手に入れたいと思わせるものとなる。

シャガールの書いた絵は、後世の、ある人々を喜ばせ、泣かせ、救い、ときにある人々からは「意味が分からない」「うるさい子供の落書き」と言われながら、また、ある人にとっては自分がこれから作り出してゆくもののインスピレーションとなりながら、これからも残され、愛されていくだろう。

「オシャレって、何?」

 

そもそもオシャレであるとはなんぞや?ダサいってどういうこと?ということを考えてみよう。

オシャレを突きつめると、『誰とも被りたくない!超キバツでこだわりの個性派』と、

『ベーシックなものをセンスよく&少しひねりを加えて自分らしさでセレクトする定番派』のふたつにわかれている。(ような気がする。)

個性派のオシャレには正解がなく、もはやその人の自己表現の世界なので、ここでは『ベーシックなオシャレ』の観点から、オシャレとは?、ダサいとは?を語っていきたい。

 

まずはダサいといわれるのにも理由があるという話から。
ダサいといわれる服や人にはどんなパターンがあるのか?

 

★キメすぎ、日常感がなさすぎな服
~女性の場合~
ゴスロリなどの非日常的な服装、またはネコ耳付きパーカーにニーハイなどといった、オタクウケのよさそうな服
アニメやマンガのような世界の服

 

~男性の場合~
FFに出てきそうな服、またはホストが着ているような服

どちらも、日常感がなくキメすぎているため服だけが浮く。
好きな人は好きというニッチなファッションのため、人から笑われたりすることもある。
相当これが好きとか、笑われても自分を貫きたいという人以外、ファッション初心者は手を出さない方が吉。

 

★スタイルが悪く見える服
~女性の場合~
ゆるっとした素材やシルエットのものを
なんとなくかわいいからとか流行っているからと特に考えずに着るとそうなりがち。

スタイルが悪くみえがちな服を着るときは、ヘアアレンジやメイクにまで気を配り、小物などの細部にまで凝らないとダサく見える。

 

~男性の場合~
ダボついたズボンなど、オシャレ上級者が『あえて』ダボついたものをセレクトしている感を出して着るものをぼんやりと着ているとオタクっぽく見える。

ダサく見せないためにはスタイルがよく見える服を着るのが大事
ゆるっとしたシルエットや、オーバーサイズの服は上級者むけ。
ある程度の経験値があり、スタイルのよい人のみが『あえて』計算して着ることでおしゃれに見えるという、難易度の高いアイテムだと思います。

 

★小学生のようなダサさがある服
原色、ポップすぎる色使いやデザイン
オシャレ上級者があえて遊び心を出して取り入れるならまだしも素人が手を出すと大火傷する

 

★中学生のようなダサさがある服
スカルや十字架、英語のロゴいっぱいの服など
女性の場合、黒×赤のチェックやニーハイなど
男性の場合ゴテゴテしたシルバーアクセサリーも危険
(お兄系でめちゃくちゃキメた人なら合うかも…?でもホスト風味)

 

そして何より、

 

★服の色合わせや、素材感やデザインや色のメッセージを理解していない人の服

 

結局、服というものを突き詰めれば
黒・茶色ベージュグレー(ネイビーカーキ)
この五色がベースになっている。
()内の色はベースにもメインにもなりうる色。万能色。

逆に言えばそれ以外の色の服は、差し色になるし、すなわち主役にもなりうるということ。

そのテーマとなる色は人それぞれ。赤だったり、マゼンダだったり…

 

ベースカラー二色×メインカラー一色が、一番無難かつオシャレに見えやすいコーディネート。
ベースカラー二色のみでは、無難だけど地味になりがちなので、上質なアクセサリーを付けたり、アクセントカラーの小物を投入するとよいと思う。

 

とまあ話はずれたが
ベースカラーを使わず、メインカラーのみの服装などはキバツ、ダサいと言われやすい。
個性派オシャレを目指す人以外は避けた方がいい道だと思う。


オシャレの経験値があがるまで、メインカラー二色×ベースカラー一色のコーディネートも避けるべき。
あとは、初心者のうちは同系色(茶色、ベージュ、クリーム、エクリュ)でまとめるとよい。

とりあえず、ダサい人は焦ってオシャレにならなくてもいいと思う。


無難&ベーシックで地味を目指そう。そのとき注意するべきはさっきも言ったようにダサく見せないためにスタイルよく見える服を選ぼうね。ダボダボゆるゆるよりも、ほどよくぴったり。

 

また、服には、素材感やシルエット、デザインや色には、メッセージがある。

 

簡単なわかりやすいところでいうと

『秋冬』というメッセージを発するもののほんの一例
素材感…ファー、ベロア、スエード
色…ボルドーマスタードイエロー、モスグリーン
(分からないなら画像検索。ググれ)

 

同じアイテムでも、素材感やデザイン、色やモチーフによって発されるメッセージは違う。

 

例えばシャツワンピ。
袖口や胸元にフリルやリボンといったモチーフがあり、ふわっと広がるAラインなどのシルエットならば『フェミニン』で『甘め』、『少女らしい』。そして『十代~二十代の若向け』。

同じシャツワンピでも、全体的にすとんとしたシルエットで、色もネイビー、シャツの襟がかっちりしていたら、『大人っぽい』『キャリア系』『OL風』『二十代後半から三十代向け』など、など。


私は女なので男物のたとえをうまく思いつかなかったけど、男も女も関係なく言えることは、こういった服のメッセージを無視して、めちゃくちゃなコーディネートをするとダサいと言われやすい。

 

着る本人は三十代なのに服のメッセージは『十代』とか、ボトムスは『秋冬』なのにトップスは『春夏』とか、靴は『ロック』『とがっている』『前衛的』なのに服は『ナチュラル』『自然体』だとか。

 

おしゃれな人はあえて、メッセージの違うものを組み合わせて楽しんでるけど、初心者はまねしちゃ危険。


初心者は、同じメッセージを発しているものを合わせよう。よく、同じ店でマネキン買いを進める人が多いけど、それは同じ店なら『メッセージ』が同じで調和が取れるからだと思う。『OL向け』と『ゴスロリ』が同じコーディネート内に取り入れられるという悲劇が起こらないから。

 

服のメッセージを読みとる力。
私は、これを俗にセンスと言うのではないかなあと思っている。
生まれながらにして恵まれている人は別として、色んな服を見て、試着して、雑誌を読んで、服を買って、失敗して、そしてみんな無意識のうちに付けていく。
だから初心者は色んな店をのぞいて、好きだなと思うものを片っ端から試着して、考えて、雑誌を読んで、失敗していくといいと思うんだ。

こう考えてみるとオシャレはセンスではなく理論で誤魔化せるものだなあと思う。
同性からダサいダサいといじめられ、私服が怖かった私の修行によって見つけた真理です。

 

そして何より大切になってくるのは、自分の体型と、顔立ちや、雰囲気の理解。

 

自分の体型や強みを理解し、服の発するメッセージ、作り手が託した想いを読み解けていれば、何百万の服を着た人よりも、数万の服を着た自分のほうを美しく魅せることだって可能だ。
(あと好きでも似合う服と似合わない服がある。気が合わなかったんだよそれ)

 

顔貌やスタイルは生まれつきのものだ。それはもう仕方ない。でもそれを活かすも殺すも自分次第。自分が最大の理解者であり、自分が最高のスタイリスト、最強のメイクアップアーティストになるんだ。

 

分からなければ先人達に聞けばいい。ファッション・メイク雑誌を買って開き、その人たちの講座を聞いたり、ランウェイのファッションショーを見る。デザイナーを知る。惹かれるものを知り、実際に着まくり、何が合うか、何がしっくりくるかを試す。

 

一見同じように見える白のブラウスだって、襟や、形や、フリルの有無から、全部違う。とにかく試着しまくるんだ。自分の顔立ちや、今の年齢や、今のメンタリティに合うか?ピン!と来たらそれは運命の服だ。あなたが変われば、年齢を重ねれば、欲しい服も似合う服も変わる。

 

自分の顔立ちと体型を知っておくこと。美点と悪点を把握しておくこと。美しく『魅せる』手段を知っているかどうか。しかもそれはアップデートされて、日々、洗練されてゆく。流行に左右されてるだけじゃなく、己の美学があるかどうかも大事。

 

そして特に才能あるデザイナーが作った服はパワーが炸裂しているので、着る側の『度量』も求められるんだ。高い服だけ買えばいいってもんじゃない。負けるぞ。安い服だろうが高い服だろうが、惹かれたらとにかく着てみるんだ。試してみる。己を知れ。

 

ちなみに私の理想は。

私が着た瞬間、値段など吹き飛んでしまって、わからなくなる。安い服が高く見える。靴と鞄だけはどーしても値段とクオリティが比例しやすいところだからお金かけますけどね。

 

平野啓一郎「非日常からの呼び声」~絵画と築く関係性~


平野啓一郎氏の記述も実に興味深かった。

彼はこの本の中で、こう語っている。

美術作品とのつきあいは、本来は、必ずしも一期一会ではないはずである

同じ絵を同じ美術館で何度も見るという経験をして、一枚一枚の絵と、特別に親密な関係を結ぶ喜びを知った。

優れた本は再読に値する。そして、読み返す度に、ますます饒舌になり、誤解を訂正し、真意を明かしてくれるようになる。(中略)絵画もまたそういうものである。初対面のよそよそしさを乗り越えて、初めて打ち解ける秘密もあるのだ


私達は、素晴らしい本を読み返すことの価値を知っている。
でも、お気に入りの絵と個人的な関係を築くことはしない。
優れた本も映画も、名作であればあるほど何度も読み返す(観返す)価値があること、その度に新しい気づきや学びを得られることを知っている。
(それについて私と旦那はしょっちゅう語ったりもする。)

それなのになぜ、わたし達は絵画や彫刻と、 そうした関係を作らないんだろう?

これは盲点だったと思う。
実物が持つ「アウラ」に触れる1回限りの経験にわたし達は満足してしまっているのではないか。

美術館へ行き、一度その実物を見ただけで満足しているのではないか。
同じ美術館へ何度でも行き、お気に入りの絵を何度も観ること、その本と親しい関係性を築くことなど、恥ずかしながら今まで考えてみたこともなかった。


そしてこれは最近気がついたことなのだが、どんなに下手くそであっても、心から感動した絵を模写・デッサンしてみることはとても良いことだ。
上手い下手は関係ない。絵画を心から愛する人なら、是非やってみて欲しい。

ただ見ているだけでは気づくことが難しい、その画家が何を描きたかったのか、細やかな視点にも触れることができる。知らなかった絵画の側面に触れることができる。
画家が愛を込めながら描いたことがわかるはずだ。それが名作であるほど。

『非日常からの呼び声』平野啓一郎氏から思うこと。

旦那に貸してもらった本、平野啓一郎氏が監修の「非日常からの呼び声」。宝物になりそうです。大好きなクノップフが載っていて嬉しかった。
(タイトル:『仮面』)
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その本に載っていたお気に入りの絵画についてあれこれ書いていきます。 安定の官能美。ティツィアーノ

サロメがあまりにもエロティックで蠱惑的なもので、ヨハネ(首ver)に全く気がつかなかった。
(サロメに全面的に光のスポットを当てて視線を集めようという画家の意図のせいでもあるのだろうが)
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これを見せたとき、旦那は「おれは禁忌感ばかりを感じたな」と言われた。
あたりまえの話だが、絵は人によって感じ方が変わるのも面白い。
エロスや官能は禁忌に宿ることが多い(と私は思っている)ので、理解できなくもないのだが。

素人の意見だから話半分に聞いてもらいたいが、晩年のティツィアーノはすごい。炸裂している。

有名な『ウルビーノのヴィーナス』とか、彼の描く女性といえばあの理想化された非人間的な美貌と肌だったように感じるのだが、晩年の作品は生々しい。
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ちなみにティツィアーノの他の晩年作品。
私の超お気に入りです。初めて見た時に震えたほど。
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(タイトル:『賢明の寓意』)
3人の人物がそれぞれ現在・過去・未来を象徴しているとのことで。
左の過去はティツィアーノ自身、真ん中の現在は息子、右の未来は遠縁の若者の肖像でもあるらしい。
この絵はあまりにも興味深いので、また後日あれこれ調べてみたい。


あと私はやっぱりムンクが好きだと思った。思春期 、接吻、マドンナ。など。
当然だが誰もが知っている『叫び』以外にも感動する名作はある。
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(タイトル:『接吻』)

率直なものを感じたまま写し取る、書きなぐる彼の絵は見ていて快いし、自分の感情を説明されたような爽快な心地がする。
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(タイトル:『マドンナ』)